なでしこルネッサンス

子育て

母性の愛で包んでいく

いかに女性というものの天職の中に、子どもを産み、育み育てるということが、いかなる、ほかにいかなる価値ある職業があろうと、これに勝る神命、職業は女性にはないのであると私は言えると思うのです。

新たな地球の未来を、人類の未来をつくっていく神の子たち、その未来の神の子どもたちを、どのようにして素晴らしい子どもたちとして育み、育てていくか、羽ばたかせていくか。

そのことが、ある意味でお母様の、その女性として母性をいかに表現をしていくか、その愛で包んでいくかということにかかっているのだということ。
そのことをもっと深く認識していただきたいと思うのです。

日向 「日本神道の女性霊1」より

愛の本質を学ぶ親子関係

自分の持ち物であり、自分の所有物であるとは思わず、永遠の魂の中においては、自分とは違う魂であるという尊厳の中において、子どもは別の魂であるという敬意を持って、子どもたちを見守ることができたのならば、自分の持ち物として子どもたちの個性をつぶすこともないことでしょう。

神から与えられた自らの命と同時に、それぐらい大事な子どもたちの命、それをいっときお預かりし、ほんの数十年の、もう人によっては二十年足らずの時しか一緒にいられない方もおられるのです、親子で。

その時を一緒に過ごすことによって、ともに素晴らしい魂の学びと出会いを経験でき、ほんとうの意味の、愛の本質が何であるかということを学ばせていただく。貴重な経験をいただく。
それが親子関係の基本でございます。

聖母マリア 「ファティマの真実」より

子どもは神より預かりし宝物 

子どもは、それぞれの魂としての気高さをもって神より創造されました。

その一時(いっとき)、あなた方の家庭を通路として与えられ、その子どもを授かるということを通して夫婦もまた愛を学び、養育者として自らも霊的な成長の場を与えられていくのです。

そして、一時預けられ、そして成人していったのなら、その子の個性を開花するようにと、それまで教育を一生懸命して、一生懸命その子なりの個性が開花するように、そのためには努力しなくてはいけません。教育も与えていけばいいのです。

そうしたのなら、一切の執着を持つことなく、見返りを求めることなく、その者たちが羽ばたいていくとき、そう、つばめの子どもたちが羽ばたいていくときのように、親は子どもたちを手放してやらなくてはいけません。
飛び立たせてあげなくてはいけません。

日向 「日本神道の女性霊1」より

親の役割とは 

子どもには子どもの転生があり、子どもの修行があり、
この地上に生まれて来た目的があるのだというその個性を尊重したところにおいて、この子どもの命をいうものを花開かすために、一時育てさせていただき、そしてその子の適性、個性を磨き、見つけて、社会に向けて羽ばたかせていく、そのような役割が親であるということ。

マリア・テレジア 「オピニオンリーダーの女性霊」より

過干渉、過保護ではいけない

小さいうちはお母さんがすべてです。
小さいお子様たちはお母さんの言いなりになるのです。

そして、お父さんたちがどれだけ止めても、結果的に見栄を張ったお母さんたちは、一生懸命着飾らせて、子どもたちを自分の道具として、自分の夢の証として、子どもを飾り立てるのです。

そこに子どもたち本来の叫び、本来の子どもとしての要求、そのようなもの、すべて無視されていくのです。

でもそのうちに、子どもたちは自我が発達してきます。
己自身の誰にも嘘をつけない自我というものが、思春期を通して成長、発展してくるのです。

それが、その時期になってきたときに何が出てくるかと言いますと、自分がいくら嫌だと言っても、叫んでも、過干渉、過保護というものが今日の母親たちの欠点でもあります。

先ほど言った自己実現のための道具のための、アクセサリーとして、自分の夢の押し売りという形での、子どもたちの人生をつぶしてくるということ。

そのときに思春期に入ってから、特に女の子よりも男の子に対して過干渉であって支配的であった母親たちは、思春期の男の子たちに、暴力、家庭内暴力とか、あとは引きこもりとか、そのようなもので復讐を受けていくのです。

それが今日あまりにも、引きこもり、ニートという、そのような引きこもりの、労働意欲、学習意欲のない子どもたちを生んでいる現状であるのです。

日向 「日本神道の女性霊1」より

親子としての絆

昔の母親はすごかったのです。強かったのです。
なりふりかまわず子どもとぶつかっていったのです。
怖いときは、お母さん怖かったのです。

そしてもっと、それで聞かなければ、出て来て最後に怖いのはお父さんだったのです。
お父さんはいつもいつも怖いのではありません。
お父さんは黙って後ろで控えていればいいのです。

お母さんが一生懸命なりふりかまわず言うときに、たとえ母親にぶたれたとしても、何されたとしても、ほんとうの意味で自分をだめにしないために、この母親は命がけでぶつかってきてくれるのだと、愛されているのだという実感さえあれば、子どもは悪くなりません。

手を上げたから悪くなるのでないのです。
手を上げたからといって子どもが急に悪くなるとしたら、それまでにしっかりと親子としての絆を築き、ちゃんと小さいときから、ぶつべきお尻とかをぶってこなかった。
体当たりで正面からぶつかってこなかった。親が逃げていた。
そのようなことに対する子どもたちの怒りがあるのです。

自分をほんとうに良くするために怒ってくれる、叱ってくれることを、子どもたちは無意識に喜ぶのです。

日向 「日本神道の女性霊1」より

結婚し旅立つ子ども達の成長を喜んで

子どもが新たな配偶者とともに家庭を持ったときに、そこに差し出がましいことを言ったり、自らの支配下に置くようなことを一切言ってはなりません。

それが、その子どもたちに対する神が与えられた自由意志であり、神性の開花を望むのであるなら、親たちも、ともにそのように霊的な成長というもの、肉体的な成長というものをともに祝う、喜ぶようなそのような親たちでなくてはいけません。

見返りを求めたり、執着の賜物、産物として子どもに接してはいけないのです。

日向 「日本神道の女性霊1」より

全ての子ども達が大事な宝物

けっして、ハンディキャップのある子どもを産んだからといって――。

昔で言うならばほとんどが、母親が悪いと、うちの嫁が不具の子を産んだと言われたのかもしれません。
そんなことはない。

逆に言うと、ハンディキャップのあるお子さんを、どうぞ来てくださいと、お引き受けしましょうといって引き受けられた、実に徳高きご両親様であったということ。

それだけの、ほかの方以上の並はずれた愛というものをお持ちの方であるからこそ、そういうお子様を受け入れ、お産みになってくださったのだという、そういう敬意が、そういうご両親様方に対してあってもよいはずなのです。

それと同時に、生まれて来た子どもたちに対しても、ようこそ生まれて来たねと、ほかの方たちに対して、あなたがまさに肉体ではない、魂こそが神の子であると、それを証しするために、あなたは生まれて来てくれたんだね。

世の中に、この世界の中において、生まれて来なくてよかった子など、ただの一人もいないのです。
すべてに意味があり、すべてが神が祝福してこの地上に生まれさせていかれるのです。

であるならば、神がそのようにおつかわしになった大事な神の子であると、地上の者たちも、周りの環境の者たちも、地域の自治体の国の者たちも、みんなでそういう子どもたちをともに、ご両親だけに押しつけるのではなくて、みんなでこの地上の大事な宝として、みんなで育てていこうよと。

ヘレン・ケラー「オピニオンリーダーの女性霊」より

選ばれし父母として

身障者をお持ちになるお母様方、お父様方のご苦労をねぎらう気持ちとして、わたくしは申し上げたいのです。

あえてそのようなたいへんな魂を、そういう方においても、ほとんど、たまに事故はございますけど、ほとんどの方が計画してお出になっているのです。

そういうことを引き受ける親御さんは、たいへんな徳を積まれることになります。たいへんな学びをされることになります。

忍耐というものを通して、真の愛が何であるかということを、体を持って学ぶのです。
そのような尊い修行をなさられるために、尊い魂をあなた方は預かられている。

そのような素晴らしい親御さんたちであるということを思うのならば、どんなに、たとえどのような確執があったとしても、そのような身障者だからといって、その、自分からその親であるということを放棄するような、そのような選択はしていただきたくないと思います。

それはあなた方が計画して来たのですよと、それを申し上げたいのです。

マリア・テレジア「オピニオンリーダーの女性霊」より

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